なんにもしたくないブログ

毎日から、手間を省き、余計な作業を減らし、動かず、迷わず、考えなくても生きていける仕組みを作りたい

「本屋が消える」問題の本質--「リアル店舗」が消えるのは、単なる販売経路の変更ではない

f:id:kurimanju:20140910222724j:plain

 

本がネットに喰われはじめて久しい。


なぜ、本がネットに喰われてしまうのかというと、端的に言えば、
分からないモノを調べる
という、本とネットの役割がかぶっているからだと思う。

しかし、ネットと"紙の"本には明確な違いがある。

それは、「本屋(リアル店舗)で売られているか否か」という点だ。
Web上でしかアクセスできないか否か」とも言い換えられる。

なぜ、そんな違いにこだわるのか? 単に販路が異なるだけではないか?

いや、違う。そんな単純な問題ではない。

なぜなら、「Web上でしかアクセスできない」ということはすなわち
「検索する」ことでしか情報にアクセスできないということだからだ。

「検索する」には、 

  1. 頭の中にある”非定形”の「悩み」を「自分の言葉(知識+記憶)」に置き換える
  2. 「自分の言葉」を「検索ワード(単語)」に置き換える
  3. 「検索ワード」で検索する

という3ステップが不可欠なわけだが、そうなると、
ネット上の情報(=知識)では、“単語化”できる悩みしか、解決できない
ということだからだ。

一見、これで問題ないかもしれない。
しかし、この流れでは、「想像もしていなかった、求めていたドンピシャなもの」には出会えないかもしれないのだ。 

なぜなら、「自分の言葉」というものは、「自分の中にある知識・記憶しか利用できない」からだ。

ということは、広大な情報の海であるWebに情報を投げかけられるのに、結局、自分で考えられうることしか得られない

しかし、「本屋」は違う。
例えば、「グルメ」という大雑把に括られたカテゴリーの中に取り敢えず飛び込み、
表紙や背にある知らない文字列や見たこともない画像といった大量の関連情報を一気に見ていく中で、
選択肢として予想もしていなかったけれど、正に求めていたドンピシャなものに出会える可能性があるのだから。

つまり、ネットでは(広い意味での)「想定の範囲内」の情報しか得られないのに対し、
本屋では「想定の範囲外」の情報とも(もしかしたら)出会えるかもしれないのだ。

こういう前提のもと、「本屋消滅問題」を考えてみると、
本屋(偶然と出会えるリアル店舗)が減り、Amazon(検索するネット店舗)だけになった世界というのは、
単に本屋が無くなっただけ=販売経路が変わった、という問題にとどまらないのではないか?

というのも、Amazonでの販売に依存してしまうと、結局、本も数多のWebサイトと同じく、
悩みを言語化して「検索する」ことでしか出会えなくなるのだから。

つまり、「本」も、Googleから広がる広大なネット空間の一部となってしまうということだ。

それでは、Webサイトと本質的には変わらなくなる…ただ、「買って」「紙で読める」というだけの代物になってしまうのだ。


そして、この流れに抗うために、一編集者が「編集」という仕事の範囲内で貢献できることといえば、
単語化できない「漠然とした世間の悩み」を、「本」という大きな容器に、共感を呼ぶような「見た目」でパッケージすることしかないだろう。

そういう本が増えて、本屋を訪れたお客さんが「ネットでは絶対に知り得ない情報を得た!」という体験を積み重ねれば、
「本屋ならではのメリット」を感じてもらうことができ、本屋も生き残っていけるのではないか?

しかし、もし「検索する」ことでしか本と出会えなくなると、検索でしかたどり着けないという「メディアの型」に本も影響を受け、ネット的な「検索しやすい」「言語化された」情報しか扱わなくなってくるだろう。

そうなると、本ならではの特性は消え、
利便性の面でHTMLで記述されたWebサイトに完全に劣る本は、
消えていくしかないだろう…

だから! もっと! 「空気感」を包み込んだ本を作る!(宣言)

★追記
とはいっても、そういう「検索ワード」の振れ幅を、検索ごとに最適に「広く捉える」のは、テクノロジーの進歩でどうにでもなることだと思う。
なので、仮に書店が消えてしまっても、その頃にはネットで完全に代替できているかもしれない。
それに、キュレーション系メディアも、要するに検索ワードだけでは探し得ない情報を得るためのものだし。

(image by PUKAR book store | Flickr - Photo Sharing!)