なぜ人は「本」を買うのか?
今日、仕事をしていてふと考えた。
なぜ、人は「本」を買うのだろうか?
正直、個々の「情報」なら、ネットで探せば大抵のものは調べられるはずだ。
だけど、人はわざわざお金を出して「本」を買う。
紙の感触が好きな人もいるだろうし、
本棚に本を飾るのが好きな人もいるだろう。
もしかすると、本という「文化」を守りたいという殊勝な人もいるかもしれない。
だけど、普通、人っていうのは「経済性」で動く。
金銭的にせよ、身体的にせよ、時間的にせよ、精神的にせよ、同じ結果が得られるのなら、間違いなく「低コスト=経済的」な選択肢を選ぶ。
だから、上に挙げたような、「本」を買うことで満足感や喜びを得られる人はともかくとして、普通の人は本を「情報」が掲載された「媒体(=それだけでは価値の無いもの)」としか思ってないだろうし、それなら、ほとんどの情報がネットで収集できる現在、わざわざ高コストの本を買う動機はなんなのだろうか?
こうやって考えると、本を買う人は、金銭なり、読む時間なり、買いに行く際の体力なり、本という媒体から情報を得るためにかかってくるコストより、本がある事の方が、もっと言えば、「本を買わない状態」より、「本を買っている状態」の方がコスパが良いと考えるから本を買うんだろうと想像できる。
ポイントは、本に掲載されている「情報」だけを、「本を買うこと」の「価値」とは捉えてなくて、そういった「情報」が掲載された本が「手元にある状態」までを考えて、「価値」を見出しているということだ。
そう考えると、わざわざ本を買うケースっていうのは、次の2つの場合に絞れるんじゃないかと思う。
※前提として、その情報を「知らない状態」よりも「知っている状態」の方が(金銭、身体、精神などの面で)経済的だとした場合
1:そもそも他の手段ではその「情報」自体が得られない
これは言わずもがななケース。書き下ろしの小説とか、「初めて口を開いた」的なインタビューや、他では得られない解釈などはこちらに当てはまる。
ただ、小説やインタビューみたいに「他で:得られる/得られない」が◎か×かで白黒つけられない「解釈」は、よっぽど◎に近づけるよう「見せ」なければ、「他では得られない」と判断されず、とどのつまり、事実は◎でも×と見なされてしまうことがあるので難しい。
2:他の手段でもその「情報」は得られるけど、その「本」から得るほうが経済的
これは、情報自体は無料でネットに転がっているけど、その「伝え方」に差があるために、わざわざお金を払って「本」を購入するケース。
必要な情報がコンパクトにまとまっていて、尚且つ一瞬で情報を取り出せる「手元」という場所に置いておける「本」の方が、ノイズまみれのネットから逐一探し出すよりも「経済的」である場合はこのケースに当てはまるだろう。
また、「情報」自体は他の手段でも手に入れられるけど、伝え方が下手で、その「内容」を「理解」できないから、「理解」できる「伝え方」の「本」を購入するというケースも考えられる(Wikipediaの項目では難しくて理解できず、そのために勉強する時間やお金といったコストを考えると、お金を出して素人でも分かると評判の解説本を買ったほうが「経済的」な場合、など)
逆に、「慢性的な腰痛がひどいので、自分で最低限の整体の知識を得て、改善したいと常々感じている」というような、ニーズが顕在化していて、それが常に頭の片隅にあって、そのニーズに応える『素人でもお家で腰痛を改善できる整体マニュアル』みたいなドンピシャな本が売り出されていて、たまたま通りかかった本屋でその本の存在を認識していたとしても……
もし、その本を手に入れるためには「1,200円」というコストがかかり、それと同じようなものがネットでは「無料」で手に入れることができ、しかもその人は使う度にそのページを呼び出すことを苦に思わない人であれば、いくら顕在的なニーズにドンピシャな本を作ったところで、「売れない」ということだ。
※ただし、他の選択肢の存在を認知していなければ、それは「無い」ということと違わない。ネットに慣れていない年齢層の高い人ほど、たくさん本を買うのはそのためだろう
だから、本を売りたいなら、他の手段では絶対に満たされないニーズをつくか、ニーズにだけ着目するのではなくて、他の選択肢に「経済的」な面で(総合的に見た時に)勝てるようにしなくちゃいけない、ということだろう。
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※雑記
小説みたいな創作物以外に、ネットには無い情報って何があるだろうか?
どういう場合に「ネット」よりも「手元」の方が利便性が高いんだろうか?
どういった情報がネットの「伝え方」では得るのが難しいのだろうか?
「知らない」より「知っている」状態のほうが経済的ってどんな場合だろうか?